二〇二四年 寒露(2024-1008)

アイドルの思想

僕が思うに、アイドルやアニメを始めとしたオタク文化は、そのほとんどが現実逃避装置で、言ってしまえばドラッグのようなものだと思っている。平日の日中は仕事のストレスでやられて、その鬱憤ばらしにアイドルやアニメを摂取する。そうするとハイになれるのだけど、少し経つと禁断症状が現れて「仕事したくないー」ってなる。

一方で、今この世界を引っ張っている(または牛耳っている)のは、イーロン・マスクを始めとするコンピュータ・オタクたちだ。こいつらは、当初は逃避的なインセンティブでコンピュータにハマっていたわけだが、結果として世界を変えるまでに至った。きっかけは何にせよ、途中で方向転換すれば、世界を変えることだってできる。それがオタクにしかないパワーだと思う。

しかし日本のアニメやアイドルにハマるオタクたちは、そのほとんどが逃避的なままで終わる。例えばアニメオタクたちは、自分の人生の不甲斐なさを異世界転生にぶち当て、恋愛で上手くいかなかったことはラブコメやハーレム系アニメにぶち当てる。こうしてなんとか精神を保つことに成功しているが、同時に沼にハマり、アニメが無ければ生きていけない身体になる。

アイドルの場合はもっと厄介で、オタクだけでなくアイドルも自分のファンに依存する。これは、言わば「共依存」の状態で、しかも結局は「アイドルビジネス」だから、恋人や家族のように直接的に繋がることは「恋愛禁止」という謎ルールを破る以外に、ほとんどない。

だから僕は、逃避的なコンテンツには可能な限り注意してきた。片足を突っ込むことはあっても、沼にハマり切るまではいかない。生存本能が働く。

……と思っていたのだが、最近になって1人のアイドルに夢中になるようになる。おかげさまで僕は、そのアイドルのTikTok配信を見るために完全夜型生活になり、仕事にもやや支障をきたすようになった。当然、これは良くない。だからいつか、僕はアイドル推しをキッパリ辞めるか、何かしらのバランスポイントを見つけると思う。しかしなぜここまでハマったかと言われれば、光とか希望に近い何かを、アイドルに見出せると思ったからだ。

僕の幸福観はシンプルで、幸せは気づくものだと思う。手に入れたり奪ったりするものではない。幸せは「気づき」で得られるのだ。この考え方でいくと、アイドルはもちろんのこと、他人に幸せを求めるのは少し違う気がする。

僕が思うに、より良く生きるために「他人」は必要なのだ。幸せになるのに「他人」は必要ないが、より良くなろうと思ったり、幸せを捨ててまで何かを成そうと思ったりしたら、そこには必ず「他人」が必要になる。

だからアイドルとファンの関係は、お互いに依存して沼にハマっていくものではなく、お互いに成長し合えるものであるべきだと思う。どんどん成長するアイドルから元気をもらうんじゃなくて、ちゃんと自分も成長する。より良くあり続ける。アイドルとオタクは、お互いに何かを求めるのではなく、共に人生を生きる仲間だと捉えて、進化し続ければいいのだ。

これを言い訳に僕は、当分はアイドル沼に突っ込んでいこうと思う。