『読書について』
アルトゥル・ショーペンハウアーの『読書について』を読んでみた。
ショーペンハウアーの最後の作品となった『余録と補遺』より『思索』『著作と文体』『読書について』の三篇を収録したのが『読書について』だ。
ショーペンハウアーは”読書術”において独自の厳しい意見を延々と連ねているのだが、結局のところ、頭を使って読むことが大事ということなのである。結局、読書は他人の道になぞらえて進むだけの行為だから、ほとんど価値がない、とショーペンハウアーは言う。自分の頭で考え抜いている中で、古人の考えを参考にするのがちょうどいいのかもしれない。
いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。
『読書について』より引用
だがこうした大衆文学の読者ほど、あわれな運命をたどる者はいない。つまり、おそろしく凡庸な脳みその持ち主がお金めあてに書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。この手の作家は、いつの時代もはいて捨てるほどいるというのに。そのかわり、時代と国を超えた稀有な卓越した人物の作品は、その題名しか知らないのだ。特に大衆文芸日刊紙は、趣味のよい読者から、教養をつちかってくれるような珠玉の作品にあてるべき時間をうばい、凡庸な脳みその人間が書いた駄作を毎日読ませる、巧妙な仕組みになっている。
『読書について』より引用
この2つの引用文は、大衆向けの作品にハマることの注意点を述べている。アニメで言うなら『鬼滅の刃』とか『呪術廻戦』とかかな。
風刺は代数のように抽象的で不定の数値に向けられるべきで、具体的数値や量を備えたものに向けられるべきではない。生きた人間を解剖してはならないように、風刺してはならず、これを顧みない者は皮はぎの刑、死刑に処されるべきだ。
『読書について』より引用
これは、現代社会で言えば、誹謗中傷に近しい部分を感じる。具体的数値=特定の人物に風刺を向けるべきではない。風刺は、社会のように極めて抽象的なものに向けられるべきだ。