M・チクセントミハイの『クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学』を読んでみた。チクセントミハイはフロー体験の研究で知られる心理学者だ。
本書では、クリエイティヴィティ(創造性)が一体どのようなもので、どのようにすれば高い創造性を発揮できるかを、90人以上の創造的な人々に対するインタビューを元に執筆された書籍だ。
まず本書において「創造性」は、記号体系の諸規則や手続きのまとまりからなる「領域(ドメイン)」と、その領域に新しい考えや成果を加えるべきか否かを決定する「分野の場(フィールド)」、そして領域から知識を獲得し、それに変化をもたらそうとする主体としての「個人(パーソン)」の三つからなるシステムで構成されている。創造的であるためには、まず領域に対して深く理解する必要があり、そして個人が成した実績をフィールドが評価する必要がある。例えば創造的な小説家というのは、多くの文学作品を読み込み、文学に対して深く理解している。そのうえで文学史に残る傑作を作り、それが文学界に評価されることで、初めて創造的な小説家ということになるわけだ。だから創造的になるためには、まず大前提として、その領域に対して深く理解する必要がある。たしかに、本を一切読んだことがない人が小説家になれるわけがないし、学者、芸術家、音楽家、シンガー、映画監督など、創造的ないくつかの書籍でも同じことが言える。自分の興味のある領域に対して、理解を深める。これが「創造」の出発点だ。
また、本書では、創造的な人々の特徴として、対照的な性格特性を保有していることが挙げられる。創造的な人々は、ときに外向的になり、ときに内向的になる。ときに活発で、ときに物静かである。ときに仕事中毒になり、ときに怠け者になる。創造的な人々は、両極端にある2つの極を、高速で行き来しているのである。
このこと自体は、僕も感覚的に理解していた。おそらく創造的な人々は「0」から「100」のうち、「0」と「100」を高速で行き来できるのだ。逆に、平均的な数字である「40」や「60」にとどまることはない。だが、「0」と「100」を高速で行き来して、平均で「50」に持っていけてるから、なんとか社会性を維持しているのである。
本書によると、従来、創造のプロセスは5つの段階で説明されてきたらしい。①準備の期間、②潜伏期、③洞察(アハ)、④評価、⑤仕上げである。準備の期間で”何か”に没頭し、潜伏期でアイデアが頭の中を激しく動き回り、洞察でアイデアが結びつき、評価でアイデアを取捨選択した後、仕上げでアイデアを形にする。ただしチクセントミハイは、この創造のプロセスは必ずしも直線的ではないとしている。この5つの段階で最も辛抱が必要なのが「仕上げ」だが、この仕上げの最中に洞察を得ることがある。だからこの創造のプロセスは、直線的なものではなく、再帰的なものである。エンジニア的にいえば、ウォーターフォール開発ではなく、アジャイル開発ということだ。
そして創造的になるために何よりも重要なのが、2つ以上の領域を掛け合わせるということである。例えば作家の場合、文学に対する深い理解は絶対に必要だとして、そのうえにそれぞれの人特有の別領域がミックスされることで創造が始まる。例えばSF小説であれば物理学や生物学の領域が頼りになるし、風刺作品であれば音楽や社会学の領域が頼りになるだろう。このような広範な知識の基盤のことを、従来ではリベラルアーツと呼んでいた。広範囲の知識は、新しいものを作り出すのに大いに役立つ。
僕は現在、絶賛アニメにどハマり中で、来月あたりから音楽と写真の領域で、本格的に制作活動を始めようと思っている。例えば「アニメ×音楽」であれば、ハッピーハードコアやLo-Fiに繋がっていくだろうし、この2つの音楽ジャンルは、アニメにどハマりしている経験がきっと役に立つ(仕事になるかは一旦置いておいて)。また、僕は普段よりライター活動をしていて、そこに写真が組み合わさってくると、色々なものを作れるようになる。現在、僕が思いついているアイデアは「みなとみらいのストリート写真集」で、でもそれは単なる写真集ではなく、みなとみらい(横浜)の未来を考えていくというテーマで制作する。だから、そこには僕が横浜のストリートで感じたことや、政治・経済に対する考えを、文章という形で表現する。横浜のIR計画は結局頓挫してしまったが、僕は横浜駅西口前のパチンコエリアを見ていて、色々と思うことがあるのである。
本書で得た「創造性」に対する考え方は、非常に的を得ている。「創造活動」に取り組みたいのであれば、必読の書だと言えるだろう。